人によってイメージが異なる言葉がたくさんあります。
企業の合併や買収の総称であるM&A[Mergers(合併)&Acquisition(買収)]もまた、その典型の一つかもしれません。実際にその実務に携わった方や、自分の勤める企業がM&Aを実行した方にとっては、M&Aは具体的な「実務」の集積と思われているはずです。一方で、経済ニュースの中でしかこの言葉と出会っていない方は、なにやら遠い存在に感じて、「ホリエモン騒動の時に聞いたな」「難しそうな専門用語だなあ」と 感じている方も少なくないでしょう。
ところが私たちの身の回りの親しみ深い企業や、誰でもが知っている大企業の多くは、このM&Aを頻繁に実行しています。
孫正義氏率いるソフトバンクなどその典型で、M&Aを駆使して規模や業域を盛んに拡大しています。その誕生当初はコンピュータソフトのメーカーだったのに、いつのまにか世界的な通信業者となりました。売り上げ規模も、10年前は8370億円だったものが、現在は6兆6667億円と約8倍にも膨張しています。(もちろんその分だけ債務も膨大に膨らんでいますが)。
短期間でこのような企業変貌を遂げられたのは、孫氏が本書でも述べるM&Aの「魔法の力」を駆使した結果と言う以外ありません。
本書の読者の多くが口座を持つメガバンクも典型です。たとえば三井住友銀行が住友銀行とさくら銀行との合併によって生まれたことは覚えていても、そのさくら銀行が3行の合併であったことなどは既に記憶の底のような感じです。戦後の日本の金融業界の歴史は、M&Aの歴史であったといっても過言ではありません。
誰もが何気なく新聞やテレビで接しているM&Aですが、一方でこの手法は業績の拡大だけでなく経営の効率化にも利用されていますから、そこで働く社員はリストラの対象ともなります。読者のみなさんにとっては、自分への影響も大きな心配ごとにもなるでしょう。社員だけではありません。管理職はもちろん、経営陣の刷新が行われることも当たり前です。M&Aの渦の中には、計り知れない人たちの苦悩と苦渋の決断があることは容易に想像できます。
近ごろでは、多くの中小企業でも、団塊の世代を中心に引退する経営者が、次代に事業を承継するためにM&Aを検討しています。私も中小企業の事業を支援するコンサルタントとして、赤字で悩む企業の再生のための切り札的手段として、M&Aのお手伝いをしてきました。
赤字の企業や事業を売却や合併に結び付けるには、黒字の企業や事業と違い、その価値の見出し方やM&Aの進め方に独自の工夫が必要です。私はいつかその実務を記して出版したいと、ここ数年考えていました。難しい企業価値の算出方法や法律論、手続き論ではなく、苦悩しながらもM&Aの決断を行い、可能な限り雇用を守り、次代に技術と事業を継承しようとする人たちの真の姿を伝えたいと思っていたのです。
そんな時でした。長年私が経営顧問を務める水田部品工業(仮名)から、東日本大震災以降本業の業績が芳しくなく、赤字傾向が止まらないという「SOS」が入りました。もちろん経営者親子は黒字化に向けて最大限の努力を払っています。しかし世の中の流れには簡単には逆らえません。資金繰りが枯渇するまでに、もうあまり時間がないという切羽詰まった状況です。私と一緒に状況を分析し、過去の経営事例を学ぶ中で、一つの結論が出るまでにそう長い時間はかかりませんでした。
―――コア事業でも赤字であるならこれを売却して、小さくともいいから黒字の企業として再出発すべきだ。
動き出したプロジェクトを進めるうちに、この現実をそのまま著作に残して、多くの企業経営者や経営幹部、社員や家族にもその実態を知ってもらったらどうだろうと考えるようになりました。実務についても事実に沿ってわかりやすく表現できますし、なによりもドキュメンタリーならではの緊迫感をもって関わる人たちの行動や気持ちの動きを知ってもらうことができます。
本書の舞台となる水田部品工業は典型的な下町の中小企業です。ここでいう「下町の中小企業」とは、例えば東京都大田区に密集する生産技術に長けた企業であり、上野や浅草に数多ある衣料品の製造メーカーやある程度の規模の卸問屋のような企業を指しています。
社員規模は数十人から50名程度、年商は数億円からせいぜい10数億円でしょうか。本社屋は、その成長に合わせて次々と増築を重ねたためにつぎはぎで、社長自ら秀でた技術者や企画営業マンとして、現場の最前線にたっているイメージです。
それらの多くは同族経営ですから、M&Aを決断するには親子、夫婦、親族であるが故の苦悩があります。また経営者と社員の関係も濃密であることが多いので、M&Aの決断は、共に汗と油にまみれてきた仲間との別れの場面でもあります。
赤字企業や事業に付加価値を見いだして、買い手企業を見つけるのは至難の業です。そのことを金融機関や取引先にも上手に説明、説得しなければなりません。あっと言う間に業界を駆けめぐる風雪の流布にも注意が必要ですし、社内で謀叛を企てる者が現れる場合もあります。仮にそれら作業に成功し、無事「お見合い」がまとまっても、今度は長年苦楽を共にした社員との別れが待っている―――。
そう考えるとM&Aは非常に厳しい経営手法であり、経営者にも社員にも一筋縄ではいかない決断を迫る非情な手法でもあります。
けれど、そうであったとしても、経営者が守らなければならないのは社員たちの労働の場=雇用であり、培ってきた技術の継承であり、クライアントとの信頼関係です。
本書冒頭の、老社長の叫びを聞いてください。
「私は会社を大きくしよう、社員と一緒に成長しようとずっと頑張ってきた。けれど振り返ってみると、大きくなっていたのは借金だけだった。すまない。許してくれ」―――。
戦後の復興期から高度成長期、バブル期、その崩壊期、そしてリーマン・ショック以降の世界同時不況期を経てきた中小企業にあっては、この叫びはどこにも共通するものです。この状況を打破するために、社員の雇用の場をなんとか維持するために、本書の主人公たちの悩み苦しみながらの活躍が始まります。
本書に描いたのは、下町で実際に繰り広げられた「血と汗と涙の物語」です。その中から読者のみなさんに、少しでも多く「M&Aの本質とその魅力」を届けられたらと思っています。